私、住本がおもちゃライブラリーとかかわりだした頃 (約30年前: 20歳の頃“もう少し髪の毛がふさふさだった頃”です)、 ボスの辻井から幾度も聞いた話しをここに書かせていただきました。 「東京で全国特殊教育研究者の会合があった時、障害児教育の 技術論や教育法でほとんどの時間を費やしましたが、そのとき、 自閉症児の母親の一人にも発言の場が与えられ、その母親は 懸命に話しました。 『教育法ではなくて、この子の生き方を話し合ってほしいんです。 兄が通っている校区の学校にこの弟も通う、そこからこの子の教育の あり方が欲しいのです。』 この真剣な願いが込められた言葉に参加者は静かに聞き入りました。 障害だけを論議する人達は、障害と思われる部分だけを取り出して、 そこを改良し発達させればと考えてしまうようです。 詰め込み鍛え上げれば発達し、良くなっていくんだということに疑いを 持たないのかもしれません。 しかし、ここには子どもの生活がぽっかりと抜けています。 いくら自閉症と専門家に診断されたとしても、毎日の ごくあたりまえの生活を子どもは家族とともに過ごしています。 言葉が出ないから、歩けないから、遊びが下手だからということが、 家族とともに生活できない理由にはなりません。 もし、それらが困るというのなら、それは子ども自身の問題ではなくて、 その子をとりまく人達の接し方や考え方の問題なのです。 これと同じことが、保育所や学校に障害を持つ子どもが入るときに 問題として起こってきています。 子どもを生活という視点から見つめなくなったとき、 情緒の安定や遊び方、学習能力だけで、子どもが本来認められている はずの場(健常児があたりまえに過ごしている場)から、 別の場が用意されます。しかしそこには、そうすることがより科学的で 専門的な立場だと信じ込んでしまう恐ろしさもくっついてくるように 思うのです。」 この話は30年たった今でも、とても新鮮に感じることができます。 それは、この話が今の私にとっての原点だからかもしれません。